江戸の文化と経済を支えた吉原のおカネ ── 日千両の金が落ちた場所


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落語や時代劇に登場する江戸の歓楽街(遊郭)・吉原。
たくさんの女性がいる場所、ということはわかっていても、実際にどのような場所でどのようなことが行われていたのかは、書物によって推測する以外にありません。
一日千両のお金が落ちた、といわれる吉原の経済は、果たしてどんなものだったのでしょうか?
 

公営施設だった吉原

 
江戸に幕府を開いた徳川家康は、まちづくりに着手しましたが、そのために大量の武士や職人たちが移住してきました。
人口が急速に増えると、犯罪が多発し、風紀が乱れることがもちろん予想されます。
犯罪の温床となる遊女屋を一個所に集めて公的に管理できれば、税収も見込めるし、都合がいいということになります。

業者のほうはお上のお墨付きを求めて、庄司甚右衛門という人物が公営の遊郭の設置を願い出、1617年に設置が認められたのが、吉原のはじまりです。
いわばお上と業者の思惑が一致して、公的に作られたのです。
はじめは現在の中央区堀留の近辺でした。これを元吉原といいます。東京ドームとほぼ同じ広さであったといいます。
 

「遊び」の手順

 
1656年に元吉原は浅草に移転します。これが、新吉原と言われ、元吉原の1.5倍の広さがありました。落語などに描かれるのは、主に新吉原です。
吉原は、現代でいうところの風俗街には違いありませんが、私たちが想像するようなものとは大きく異なっていたようです。

まず、「芸者」といいますが、吉原では彼女たちは宴席を盛り上げるのが役目で、客と枕をともにするわけではありません。
枕をともにする、いわゆる「遊女」にもさまざまなランクがあり、「花魁(おいらん)」というのはその最上級。
花魁に相手をしてもらうにはいろいろなしきたりがあって、もちろんお金もかかります。
まずは客と花魁を仲介する「揚屋(あげや)」(または引手茶屋)というところに上がらなければなりません。
ここで客は芸者や幇間(たいこもち)を相手にお酒を呑み、芸を楽しみます。
これから置屋から花魁が来るのですが、はじめから相手にしてくれるわけではありません。
吉原では一回目のことを「初会」といい、顔を見せるだけ。
二回目に行くことを「裏を返す」といって、そばまで来て話をすることができるようになります。
ようやく三度目になって「馴染(なじみ)」となって床入りが許されたのでした。
 

流行と文化の発信地・吉原

 
上級の遊びには、3回にわたって花魁の揚代はもちろんのこと、揚屋の仲介料、宴席の料理代、芸者や幇間、若い衆などへの祝儀(チップ)などお金がかかります。
江戸時代の貨幣制度は複雑で、簡単に現在の価値には置き換えにくいのですが、大きな店(見世)の場合、一晩の料金は少なくとも3両(約20万円)ほどかかったと言われます。

こうした遊びは誰でもができるわけではありません。新吉原になってからは、しだいに大衆化し、揚屋や茶屋を通さない安くて手軽な遊びも普及してきます。
一番手軽な切見世(きりみせ)女郎で1万円から2万円程度でも遊ぶことができたようです。

ただし、吉原は単なる遊興の場所ではありませんでした。
流行の発信地であり、新しい音楽や髪型、ファッションも吉原で流行ったものが全国に広がったのです。
こうした風俗は独特の美学も生み出します。「鯔背(いなせ)」「粋(いき)」といった美学ももとは遊郭から生まれたものだとされます。

芝居や文学の題材にもなりました。女性の旅行者が花魁を見物に行ったという記録が残っています。テーマパークのようなものでもあったのでしょう。

江戸では魚河岸、芝居町、吉原のそれぞれに一日1000両(約8000万円)ずつが落ちた(使われた)と言われます。吉原は江戸の文化と経済の両方を支えていたのです。
 

≪記事作成ライター:帰路游可比古[きろ・ゆかひこ]≫
福岡県生まれ。フリーランス編集者・ライター。専門は文字文化だが、現代美術や音楽にも関心が強い。30年ぶりにピアノの稽古を始めた。生きているうちにバッハの「シンフォニア」を弾けるようになりたい。


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